わすれっぽいきみえ

みらいのじぶんにやさしくしてやる

本『人間失格』を読んだ

例によってスマホにプリインストールされてたから読んでたわけだが、わけあって急いで読んだ方がいいらしいことになったので今日読み切った。

人間失格』、女の子にモテるのをいいことに遊び回る話なのかなと思ってたけど、人間の気持ちがわからないし自分のことも分かってもらえないと思っている主人公の苦悩を書いた話だった。以下感想。

人間が人間を怖いと思うのは割と普通だと思う

相手が何考えてるのか分からないというのはそりゃそうだと思う。血がつながっててもつながってなくても本当の意味で何考えてるかなんて分からない。だから誰が何を考えているか分かって話をしてる人なんて一人もいないんだ、と誰からも教えてもらえなかったんだなと主人公の不幸を思った。最も誰かが彼に教えてやろうとしても彼自身に聞く耳があったかはかなり疑問だが。途中、誰も相手の考えを分かって話してないことに気づいたみたいだったけど、それまでに性格がねじくれまくって修復不能な感じになってた。

むしろ誰かが何を考えているのか筒抜けになっている状態の方が怖いと私は思うくらいで、分からないからこそ良かった部分もあるはずなんだけど、この主人公は「みんな自分のことをいい人だというけど、本当の自分は違うんだ」とふさぎ込んでしまっていた。もっと救われる道があったんじゃないか、と思うことが読んでてところどころあるけれど、主人公は進んでその道を選ばなかったし、何とも言えない気持ちになる。

もっと楽にすればいいのに、が本当に通用しない人なんだな、と。変な方向にストイックというか。

怖いのはこの話を書いた人物自体

「はしがき」はある人が写真を3枚見るところから始まり、「手記」はその写真に写る人の独白、「あとがき」は「はしがき」を書いた人物が「手記」を手に入れた経緯とその手記を渡してくれた人との挨拶や感想となっている。

で、私がすごいよなと思うのは「手記」を書いた主人公と「あとがき」「はしがき」を書いた雑誌社?か何かの人の文体が全然違うこと。誰に当てたかで文章が違うのは当たり前、誰が書いたかによって文章が違うのは当たり前、そしてそれらを書き分けられるというのもプロの小説家なんだから当たり前なんだろうけども、ふと

「この文章、全部おんなじ人間が一人で書いてるんだよな」

ということを思うと、空恐ろしさを感じた。

「手記」の中で語られている部分部分は実際に太宰治が起こした事件と一致していて、本物の黒歴史だ。だから「手記」を書いた人物を例えば太宰治本人と想定して考えていたこともだいたい同じだとすると、この手記を読んだ雑誌社の人の文体に、その温度差に引いてしまう。

「手記」を書いた人:自分はもう人間ではない
「手記」を読んだ人:大変な人だなぁ

これが同じ人物。気持ちが悪い。

小説の中の人間だから、実際の人間とは違うんだよということを聞いたことがある。でもこんなに切り離しにくい実体験に即したものを違うんだって本当に書けるもんかな。プロだから?でも人間でしょ?いや人間じゃないのか。
すごく気持ち悪い。

横溝正史金田一耕助シリーズ、何冊か読んだことがあって、だいたい事件に巻き込まれた人間が「金田一耕助というすごい探偵が助けてくれたんです」という話になってるけども、そこまで書かれた手記の文体が違うと感じたことはなかった。あれは文体を変える意味もないしいいんだけど、『人間失格』では文体のテンションというか、その文を書いたと想定される人の立ち位置・考え方がまるで違うと感じられた。

おしまいに

私にもいろんなことがあったはずなんだけど、ここまでねじくれなくてよかったーと思った。 嫌なことがあっても自殺を図ったりは今までしたことない。こんなにも人の内面に対して想いを馳せてしまう人は苦しいだろう。人が悲しいと言ったときに自分も悲しくなって涙を流す人も同様につらいだろう。それで、こういう話を読んでいつも思ってしまうのは「私は心底冷たい人間だよな」と。

ただ高校のときに読まされた清少納言の『枕草子』の中に「誰かからつらい目にあった話を聞かされて、一緒になって聞いている他の女御たちがみんな涙をはらはら流すのに、私は一滴もでなくてつらい」って書いたエピソードがあって、「冷たい人間だよな」って思うたびにその話を思い出して、人間なんて考えてることの大枠は1000年経っても変わんないんだからいいやーって思うことにしてる。

プラス思考大事。